長男に「上履きを洗っていない」事実を注意されて、開き直って怒鳴り、ドアを乱暴にしめる長女に対して叱らない訳にはいかない。
怒られることも判っているとはいえ、長女が階段を上がってきた。
「で、オレにいうことはなんだ?」
「ごめんなさい」
「なにに対して謝ってるんだ?」
「上履きを洗ってない」
「上履きを洗ってないのは勿論悪い。でも、オレがそんなことで怒ると思うか?オレが怒っているのは、おまえの態度だ」
「なぜ長男を怒鳴りつけた?なぜドアに八つ当たりした?」
黙っている長女。
頭をピシッっと叩く。
「人を怒鳴るな!物にあたるな!何回言えばわかるんだ?」
長女は泣き出し、
「(長男が)ドアをバーンて開けたら背中に当たって痛かった・・・」
ま、本当なんだろう。
「で、(長男に)おまえはどうした?」
「ごめんなさいっていった」
「(長女に)ごめんなさいってきこえた?」
「でも痛かった」
「怒鳴って痛みがなくなる訳じゃないだろう。怒鳴ったり、ドアをバタンとしたりすることは、痛い事されたらやり返すってことと変わらない。謝ればいいって訳じゃないけれど、怒鳴ったところでおまえが悪者になるんだ。」
「人にやさしく出来ない奴は、人にやさしくされない。それはおまえだけじゃない。(長男)もそうだ。オレが怒るのは、おまえ達が怒るからだってことを忘れるな。わかったのか?」
「はい」
「片付けは終わったの?」
「まだ」
「じゃあ続きをして」
実際にはもっとしつこくやり取りしているが、大体こんなところである。
わかったのかは、不明だ。
叩かれるほうよりも、叩く方が痛いんだよ!
ということくらいは判って欲しいところである。
子供達の通っている小学校は、道徳教育もしっかりしていて、特殊学級もあり、差別や偏見も少ない、かのように見えるが・・・
たぶん、先生方においても、ボーダーラインの子供達の面倒は進んでは見たくないというのが本音だと思う。
自ら発達障害を持つ長女の深層には、人に対して、心底優しく接するだけのゆとりはない。
そればかりか、自らの障害以外の障害に対する偏見も微妙に育っているような気がする。
以前、家族みんなで「アイ・アム・サム」を見ていた。
終わって、長女が言った。
「あ?しんしょうってかわいそうだね?」
おそらく長女は、「しんしょう」という言葉を差別の意味で使っているのではない。
自分自身で思いつくとは思えない。
同級生が面白おかしく言っていることの受け売りに違いないのだ。
私は「しんしょう」という言葉を何故使うべきではないか、この映画の主人公と長女がどれくらい違うのか、どれくらい似ているのか、我慢強く説明したつもりだ。
しかし、伝わっているのかは、不明・・・・。
長男と次女はどうか。
長男の方が既に百ます計算は速いし、家の手伝いなど、色々なことがおねえちゃんよりも出来るということ、なんとなく察している部分もあると思うのだ。
ただ、そうは思いたくないということだ。
でも、それではいけない。
私は、長女が部屋の片づけをしている間に、長男と次女に、こう言った。
「おねえちゃんはおまえ達よりもちょっと頭が悪い。それは事実だ。だから、おまえ達はおねえちゃんに対して、腹を立ててはいけないんだ。おむつをしている赤ちゃんに、トイレでおしっこしないなんてずるいよ?!と思うのか?赤ちゃんみたいだとからかうことが出来るか?赤ちゃんだとしたら?」
勿論、長女がおむつをしている訳ではないが、おそらく、長男と次女にはこの例えで判ると思う。
精神的にひとり立ち出来ない長男にとっても現実を認めるのは辛いと思うが、これを乗り越えてもらわないとうちの家族は上手くいかないと思うのだ。
晩御飯は、チヂミ風揚げ物とご飯。
子供の評判?イマイチ。
子育てもそうだが、料理も奥が深い。
とりあえず今日は、終わり。
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(でも今日はもう書きません・・・)