ひいちゃんふぁみりーさんの日記を読んで、コメントをつけようと思ったのですが、長くなるので自分の日記に書き込みます。
『たった一人の子のために、クラス全体がそれに合わせなくちゃならないなんて迷惑ではないのか。なぜ特殊学級に入れないのか』という心無い言葉が又聞きで伝わってきました。
それに対して、「特殊学級は座敷牢ではないんですよ」、と唱える内容の日記でした。
とても痛みのある日記です。
以下は私の日記です。
私が子供の頃、偏見は多数存在していました。
特殊学級、体の不自由な人、外人、出生に係わること、親の職業、等・・・・
それらを差別することで、自分が「正常」であることを認識し、社会的?安心を得ていた。
暗黙の上に差別階級は存在していました。
だからこそ、「差別はやめよう」という運動が盛んだったのでしょう。
当時、表立って口にしてはいけない、という程度の認識(マナー?)は、私の中にもあったと思います。
そして、私自身、親の職業や天然パーマという外見的特長、(当時ではこれもイジメの対象でした。現在では信じられないでしょう)さらに病弱だったことなどから、多くの子供達にからかわれ、いじめられたにもかかわらず、「特殊学級の子供達」に対する偏見を持っていたのです。
当時、私の小学校にも「特殊学級」がありました。
「スレスレの子供達」もクラスに数人いました。
普通の子たちは、「階級ピラミッドごっこ」をするものでした。
そんな遊びをされた日には、私はかなり下の部類に属してしまいました。
私はどちらかというと、そういった「スレスレの子達」とよく遊んでいました。
普通の子達は、一部の子を除き、とても「危険な思想」を持っていたので、気分が悪くて遊べませんでした。
そして、「特殊学級」になると、触れ合う機会も与えられていませんでした。
「特殊学級」は別格扱いだったのです。
「特殊学級の子たちも同じように仲良くしてあげてください」と先生は言っていたように記憶しています。
しかし、どのように接するのか教えられはしたものの、特殊学級の子達と接する機会は、卒業するまで一度も与えられませんでした。
そういった機会がないまま、大人になって、仕事に就くと、障害者を家族に持つ方などと話をしたりする機会もありました。
ただ、あくまでも、自分とは縁遠い存在であることに変わりはありませんでした。
現在、私には3人の子供がいます。
下の子供は、赤ん坊の時から育てている子供。
つまり、妻が産んだ子供です。
上の2人は、妻の弟の子供です。
二人とも、現在、教育研究所のカウンセリングを受けています。
この子達は当然、「普通学級」に入るものだと思っていたので、「特殊学級」を意識したことはありませんでした。
しかし、実際には、毎日暮らしてみて初めて解ったのですが、この子達は、「スレスレの子供達」だったのです。
お姉ちゃんはADHD,弟は高機能自閉症だと思われます。
認定を受けているわけではありません。
弟のほうは、今でも注意が必要ですが、家に来てからだいぶ症状はよくなっているような気はしています。
この子たちが、「特殊学級の子達に対して、偏見を持ち、差別の心を宿している」ことを知ったときにはショックでした。
そういう子達より優位に立っていることを確認することによって、自分の境遇を慰めているのかもしれません。
しかし、それは間違った慰めなのです。
この子達の間違った優越感を撲滅することが、親の仕事、私のやるべきことでもあります。
現在でも、偏見は多く残っています。
子供が持っていなくても、周囲の大人達が種を植えつけていくのです。
偏見をもった親に育てられた子供が全員、自力で過ちを訂正して、将来自分の子供達に偏見を植え付けるのを止めると思えますか?
私達大人が子供に対して、「障害のある子に対する接し方」を正しく教えていかなければ、今の子供が自分の子供を持ったときに、また同じ過ちを繰り返すことになるのだと思います。
でも、どうやって教えていけばいいのでしょう?
偏見のある子供と遊ばせないようにすればいいのでしょうか?
偏見のある子供の間違いを指摘し、逆にいじめを受けて来るべきなんでしょうか?
そんなに難しく考えることではないと思います。
もし自分自身が偏見を持っていないなら。
私自身、子供に対する偏見はないのか。
自分の子供と妻の弟の2人の子供をわけへだてなく育てているのか、
そして他人の子供に対しての接し方に問題はないのか。
その親に対してはどうなのか。
社会に対する自分の考えを子供にきちんと説明出来るのか。
うろたえず、自信を持って。
今私が抱えている最大の問題です。